下祇園の祇園車・御神輿

闇無濱神社(くらなしはまじんじゃ)の由来

 龍王町に鎮座し、祭神は豊日別国魂神を祀っています。古くは当社と大江神社と六所宮を中津三社と称され中津藩の祈願所でした。詳しい由緒は不明ですが、「永享2年(1430年)6月社殿再建、祭礼も再興する」と旧記にあります。寛永年間細川忠興の寄進によって社殿の改築がなされています。

 向かって左社殿(右座)には「祇園八坂社」が鎮座し、速素佐之男(はやすさのお) 神、櫛稲田姫(くしなだひめ)神を祀っています。速素佐之男神は天照大御神の弟神で、八岐阜大蛇(やまたのおろち)を退治した神として有名です。「スサ」には「荒(すさ)」と「清浄(すさ)」の二つの意味があるといわれています。荒々しい強い力で世の罪けがれや災厄を払いのけ、清らかな正しい生活を守ってくださる神だと言われています。下正路の漁民が京都の八坂神社から御分霊を勧請したとされていますが、その年代は不明のままです。

 また、向かって右社殿(左座)には「住吉社」が鎮座し、底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、表筒男命(うわつつおのみこと)の三神と安曇磯良(あずみのいそら)を祀っています。住吉の三神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が禊(みそぎ)をされた時に出現された祓(はらえ)の神々ですが、禊は海や川の清水で身をそそぎますので、水の神、海の神、航海の神や漁業の神へと、自然に信仰を発展させたと思われます。闇無浜の住吉社は、仁寿(にんじゅ)2年(852年)に、豊前大守藤原友長の祈願で、中津川流末の現社地に、境内を定めたことが知られています。  

※以下は令和5年度の御神幸順で掲載しています。

令和五年度 下祇園先車
下正路町(しもしょうじまち)舟車

 天保3年(1832)の建造で、下小路浦在住の舟問屋播磨屋代吉と紙屋仁左ェ門より寄進されました。

 中津祇園唯一の舟車で、御座船を祇園車に載せています。

 その舟の名前は「天鳥丸」といい、神話の「天鳥舟神(あまのとりぶねのかみ)」という天をも翔る舟神に由来します。

 御神幸の際には、中津藩主の参勤交代の際に唄われていたという「御船歌」が唄い子によって唄われます。

 かつては、下祇園のしんがり十番車でしたが、現在では、下祇園の一番車(先車(はなぐるま))の大役を毎年務めています。

 この車は可倒式で、建造時の記録として、「世話人 下正路 万屋平兵衛、大阪屋五郎兵衛、三木屋源助、日田屋七兵衛、紙屋四右ェ門  船場 田屋善助、塩屋利助  新浦 中屋浅右ェ門」となっています。 その他の記録として、「当番世話人 大黒屋五郎兵衛、日田屋五蔵 棟梁 佐甲冶助、豊浦弥八」の記載があります。

 下正路町舟車の扁額には「天鳥丸」と鳥形文字で書かれていて、奥平家寄進の言い伝えがあります。「嘉永七年六月朔日 下正路庄屋」の裏書が確認されています。

 また、欄間の龍の裏書には、「一天太平、四海平定、豊前国下毛郡大江郷玉握荘下小路浦車再興 大将軍神武高運 享和三年六月 椋野谷西屋舗 一ッ家 塗師 恵蔵」とあり、「豊前国下毛郡大江郷玉握荘下小路浦」は、室町時代までの下正路の地名、「椋野谷西屋舗」は京都の地名と考えられています。

令和五年度 下祇園二番車
姫路町(ひめじまち)踊車

 明治17年建造の車の改造を明治36年(1903)に発起しましたが、日露戦争のために中断し、大正2年(1913)に再建を開始して大正3年6月22日に完成しました。

 可倒式の祇園車で、「世話人 小倉音市、松下直次郎、西海宗太郎、保科波路、蒲田亀太郎 大工・彫刻師 破風欄干浄瑠璃棚など 蒲田亀太郎、中梁辯台合天井 塚原鶴松、梁桁雲板屋根 田中彦四郎、折屋根片側 小倉音市」の記録があり、町内在住職人の合力で作られた車であることがわかります。

 扁額は寛政11年(1799)の作で、有名な国学者である古表神社宮司の渡辺重名の筆によります。

 昭和6年(1931)に一階車を二階車に大改装し、現在の姿となりました。

 その後、昭和32年、42年、平成5年、7年と修理・改装を行っています。

 平成25年(2013)に、台輪を新調しました。

 また、茶弁当が平成12年(2000)に復元されました。

令和五年度 下祇園三番車
桜町(さくらまち)踊車

 明治28年(1895)6月に一階車として完成しました。

 可倒式の祇園車で、姫路町の祇園車と同時期に建造されたため、類似点が多く見られます。

 建造時の大工は上毛郡宇島町の滝川房造氏、改造時の大工は姫路町の小倉乙次郎氏、小倉光治氏で、塗師は船町の中島謙吾氏の記録が残っています。

 昭和9年(1934)に、改造計画が総町会で決議され、着工2年後に完成しています。

 当時の詳細な関係書類は現存しており、その中に改築委員として、「総代 住原保 山田栄太 由本護蔵 久恒長蔵 恒成崎蔵 当番 今井源吉 松山勘冶 稲桝幾太郎 新庄助 山田義文 白木原孫市 松尾四郎 阿部憲一 羽立逸作」の記述があります。

 後軒見送りの鳳凰の彫刻と扁額には、明治28年の裏書が残っています。

 改造当時、桜町は豊前屈指の花街であったため、車の至る所に繊細で豪華な飾りが施されています。

令和五年度 下祇園四番車
龍王町(りゅうおうまち)踊車

 明治33年(1900)の祇園祭を最後に、協力関係にあった下正路町から独立し、今富、長賀、浜田、掛野の各氏が発起人となり、明治41年(1908)に宇島の神明町(福岡県豊前市)より祇園車を購入し、大改修を行いました。

 昭和18年(1943)までは舟車であり、下祇園の先車(一番車)でした。

 朝車のお発ちと、戻車の練り込みでは、御神前で「松前音頭(舟山車引出歌)」が唄われます。

 可倒式の祇園車で、正面欄間には麒麟、左右欄間には鶴亀、後軒見送りには鳳凰の彫刻が施されています。

 他町の祇園車に比べて、折り屋根の桟の間隔が狭いのも特徴です。

 大正14年(1925)に「新浦」の町名を「龍王町」へ改名し、昭和21年(1946)に舟車から踊車へ改造されました。

 昭和36年(1961)に台輪を新調し、昭和58年(1983)と平成18年(2006)に全面塗り替えを行っています。

 また、平成19年(2007)に車輪を新調しました。

令和五年度 下祇園五番車
堀川町(ほりかわまち)踊車

 明治40年(1907)に日露戦争戦勝祝いとして、材料費62円で完成しました。堀川町の職人たちの手で建造された車です。

 絵彫刻師 楠本雲秀斎 世話人 豊浦、吉松、田宮、室尾、佐甲、福田、吉田の記録があります。

 現在の車は三代目で、欄間は二代目の車より受け継ぎました。

 「京都仏具町北小路在住山本房次郎」の裏書が確認されています。

 その龍と獅子の目玉はどこから入れられたのか、今なお不明だと言われています。

 台輪は総けやき造りで、扁額は明治43年(1910)年の作で、裏には山本房次郎氏と船町塗師の中村福枩氏の銘があります。

 初代の車は文政8年(1825)に藩主奥平昌高公より、二代目の車は慶応4年(明治元年、1868)に藩主奥平昌遭公より拝領しました。

 二代目の車は明治40年(1907)に欄間だけを残して、福岡県田川地方に33円で売却されました。

令和五年度 下祇園六番車
豊後町(ぶんごまち)楽車(御神殿奉斎車)

 豊後町の車は中津祇園史上最初の祇園車であり、現在の祇園車の原型と言われています。

 天和3年(1683年)、豊後町有志から「闇無浜神社の祇園社は京都の祇園社から勧請された由緒正しい祇園社です。私たちも京都の祇園にならって美麗な山車を出してはどうでしょうか」との発意がありました。

 これに対しに当時の中津藩主である小笠原長胤はこの事を許し、早速京都に山車を発注し、豊後町に与えました。

 これが中津の「祇園車」の発祥とされています。

 このとき、長胤公は祇園車だけでなく、御神殿も同時に与えたので豊後町の祇園車は「御神殿奉斎車」という格の高い車となりました。

 車全体を朱の漆で塗られた優雅な車であったそうです。

 車後上部の鳳凰の裏には安政4年(1857)の裏書が確認され、台輪や兜金などには明治44年(1911)に大規模な補修を行ったという記録も確認されています。

 丸柱の採用や、男柱の外側への配置、二階部分のない二層式の構造など、現在の祇園車では見られない構造上の特徴がたくさんありますが、「踊り車」に対して、豊後町の車は「御神殿奉斎車(みこしぐるま)」あるいは「楽車」と呼ばれ、辻では「影向楽(ようごうがく)」という舞が披露されていました。

 笛の音に合わせて鉦が拍子をとり、白の唐衣に真紅の母衣を背負った稚児たちが輪になって舞うというものでした。

 舞が終わると、車の後に稚児が続き、老舗の傭人が大傘を差してあげたり、大団扇で煽ってあげたりして稚児に付き添ったそうです。

 囃子も「チキチンチキチンチキチンコンコン」ではなく、傘鉾が後に付き、笛の入った優雅な囃子であったと伝えられています。

 昭和33年(1958)ごろを最後に祇園祭には参加していませんが、青年有志の手により、平成15年(2003)に展示山車として復元されました。

 そして、平成25年(2013)、50数年振りに御神幸に復帰し、「影向楽」が復興しました。

 翌平成26年(2014)には塗りが全面的に施され、傘鉾も復活しました。

闇無濱神社御神輿
(角木町(つのぎまち))

 「下小路文書」に正徳2年(1712)の山車のだしものの記録に御神輿三基とともに神幸したとあります。

 この御神輿三基はどの町が担いでいたか不明ですが、御神輿以外にも角木町が参加していたことが記録としての残っています。

 いつ頃から角木町が御神輿を担いで奉仕するようになったか、はっきりとしたことは不明です。

 角木町は他の町内と違い、闇無浜神社の御神輿を担いで御神幸しています。

 祇園車は各町内の所有ですが、御神輿は闇無浜神社の所有です。

 町内は、お囃子を奏でる傘鉾、子ども神輿を所有しています。

 神社の御輿蔵(みこしくら)には、現在も三基の御神輿がありますが、担ぎ手の人数の都合から、いつからか一基で御神幸しています。

 平成10年に八坂の紋の入った御神輿が新調されました。

 それまで担いでいた小笠原の三階菱の家紋が入った御神輿は中津市歴史民俗資料館で保存されています。

 角木町は、下正路町とともに次官の位が与えられ、朝車の日には、町内で一年間神様を預かっている座前元(ざまえもと)の家で「次官祭」が執り行われます。

 朝車の未明、御神輿に御神体を移します。この後、御神幸が始まります。

 戻車の朝は、御旅所にある御神輿の前が踊り奉納箇所の一番目になっており、各町の祇園車は、御神輿の御神体に奉納して御神幸に出発します。(現在の下祇園の御旅所は、闇無浜神社の本殿御神前になっています。)

 戻車の夜、闇無浜神社に到着した祇園車、御神輿は、練り込みを行いますが、最後まで御神体を還さずに練り込みを行うのは、御神輿だけです。

 全車練り込みが終わり、御神輿から御神体が降ろされると全ての日程が終了します。この神事は「還御祭」(かんぎょさい)と呼ばれます。

 御神輿のかき棒は、横向きの棒を入れない伝統の縦二本にこだわっています。