中津祇園とは
中津祇園は、10万石の城下町中津を代表する祭で、疫病退散と無病息災の祈願を目的に、毎年7月20日過ぎの金曜日から日曜日の3日間行われます。
闇無濱神社(くらなしはまじんじゃ)摂社の八坂神社を中心として行われる「下祇園(しもぎおん)」と 中津神社を中心として行われる「上祇園(かみぎおん)」の二つの祇園祭が同日開催され、合わせて「中津祇園」と称されています。
下祇園上祇園合わせて、「祇園車」(ぎおんぐるま)と呼ばれる漆塗りの華麗な13台の曳車と、2基の御神輿が中津の城下町を御神幸・御巡行し、高〆が張られた辻々では祇園車の舞台で華麗な民舞等が奉納されます。
「チキチンコンコン」の囃子とともに、芸能奉納のための舞台付き曳車を大人数で曳き回す形態は、江戸時代の大坂三郷地域で多数見られた地車(だんじり)に多くの共通点が見られることから、「祇園車」は江戸時代に経済的な交流のあった関西圏域から瀬戸内海を通じて伝播してきたとする説が有力となっています。
中津祇園のはじまり
今から約600年前の永享2年(1430)に、丸尾某の霊夢によって豊日別宮(闇無濱神社)および祭礼を再興し、下正路浦の漁民が祇園の御分霊を京都の八坂神社から改めて勧請し、下正路浦の漁師の村祭としてのささやかな祭が行われたことが、中津祇園(下祇園)の記録として残っている最も古い記述です。
一方、宝暦12年(1762)に萱津の大江八幡宮の初卯神事が渡辺越後守の申し出により再興され、この時、京町が祇園囃子を寄進したのが、上祇園の始まりとされています。
なお、現在のような祇園車が出されるようになったのは、約340年前の天和3年(1683)です。これまでに、最多で18台もの祇園車が出ていました。
その賑やかさから、昭和初期までは九州三大祇園祭(博多祇園山笠・行橋今井祇園)と称され、今日でも豊前三大祭(宇佐神宮御神幸祭(宇佐夏越祭り)・小倉祇園太鼓)あるいは、大分県三大祇園祭(日田祇園・臼杵祇園)とも称されています。
芸能目的の地車(だんじり)の特徴を持った「祇園車」
中津祇園では、御神幸・御巡行で曳いて回る車のことを「祇園車」(ぎおんぐるま)と呼んでいます。
いつから「祇園車」と呼ばれ始めたのかは不明ですが、下八町から車が出揃った享保(1720年)の頃から、「祇園車」の呼び名があるようです。
天和3年(1683年)、豊後町有志から「京都の祇園にならって美麗な車を出してはどうか」との発意があり、当時の藩主である小笠原長胤(ながたね)が、美しい曳車を関西から取り寄せて豊後町に与えたのが「祇園車」のはじまりです。
この図のように、江戸時代に経済的な交流のあった関西圏域から瀬戸内海を通じて伝播してきたとする説が有力となっています。
「祇園車」には、3つの特徴があります。
1つ目は、「折り屋根」と呼ばれる屋根の両端で、左右の軒の部分を上向きに折り曲げた格好になっていることです。
これは、路地の狭い中津の町に、できるだけ大きな祇園車を御神幸させるために考え出された中津祇園独特の形だとされています。
2つ目は、祇園車の高さを短時間で極端に低くできる事です。
これは殿様にお披露目をする際、祇園車を解体することなく城門を潜り抜けるための仕掛けで、この仕掛けを「可倒式」と呼んでいます。現在では、城門を潜る事が無くなったため、巡行中に見る事ができなくなりましたが、今でも「車建て」の際にはこの仕掛けを使っている町内もあります。
3つ目は、足回りです。
2トンから3トンもあると言われる祇園車を引き回すには、頑丈な足回りが必要です。
外から車輪(グル)を挟み込んでいる大きな一枚物の部材が「台輪」と呼ばれる部位です。
京都の祇園祭の山鉾とは違い、内部に車輪(グル)を取り付けるスタイルとなっています。
これは、城内引き入れで段差のある路面を進むために、車軸(芯棒)を折れにくくし、強度を確保するためと言われています。
また、「台輪」の形態も長方形のままではなく、逆三角形のようにして前方を開けているのは、進入角度を確保するためとも言われています。
なお、車輪は(グル)は樹齢数百年の松でできおり、京都の山鉾や飛騨高山の屋台の車輪と比べると、かなり太くて丈夫なものが使用されています。
祇園祭が終わって祇園車が解体されると、虫食い等の被害から守るために、車輪は中津城薬研堀等に埋められます。
優艶な奉納芸能
舞踊朝車および戻車の御神幸・御巡行では、「高〆」の下に祇園車を停め、踊り等の優艶な芸能が奉納されます。
これは「辻踊り」と呼ばれています。
古来、悪霊などは通りの辻や町と町の境界から侵入してくるものと考えられていました。
中津祇園においては、人々はそのような場所に高〆を建て、御神幸で下界にお越しになった祇園の神様(速素佐之男神)を一時的にお迎えし、悪霊退散していただこうという意味で、芸能を奉納するものと考えられます。
芸能の奉納が終ると、高〆の結界が解け、次の高〆に向けて祇園車の進行が可能となります。
豪快な「やりとり」(やりどり)と操船の合図「面舵・取舵・良候」
祇園車が舵を切って威勢良く交差点を曲がることを「やりとり」といいます(※「やりどり」と呼ぶ町内もあります)。
下祇園では「お宮入り」、船町上の辻(福沢通り)、JR中津駅前ロータリー等が、上祇園では枝町古魚町境高〆の辻(福岡銀行前)等が「やりとり」の見所です。
自動車のようなハンドルの付いていない祇園車をすばやく、かつ円滑に動かす工夫の一つに、「操船」の合図が挙げられます。
その合図とは、「面舵」「取舵」「良候」(ヨーソロー)です。
「面舵」は右旋回(祇園車の中心から見て祇園車の頭が時計回りに回る方向)、「取舵」は左旋回を意味し、「良候」は「舵を切る必要なし」ということを表しています。
祇園車の四方に付いて祇園車進行の司令塔となり、舵取りに指示を出す人たちのことを舳(みよし)・艫(とも)といいます(「台輪付き」あるいは「車付き」と呼ぶ町内もあります)。
舳と艫は船の部位を表す言葉で、舳は「水を押す→水押し→みずおし→みよし」という意から船の先端を意味し、艫は船の後方を意味します。
中津祇園の起源が漁村の祭であることから、祇園車を船と見立てて、操船の言葉が使われてきたと考えられます。
さらには、祇園車のルーツと考えられている「だんじり」は、川御座船が起源とされていることから、和船の残響といった指摘もされているところです。
鉦祇園
「チキチン チキチン チキチン コンコン」のリズムパターンを「じゃんぎり」とよび、鉦と締太鼓がくり返します。
鉦を打つ時は、撞木(しゅもく、通称「ばち」)と呼ばれる、ハンマーの様な形をした木製の棒で打ちます。
中津の祇園囃子は、鉦の打ち方に特徴があり、祇園車の動く速さに応じて鉦を打つ調子(テンポ)を速くしたり、遅くしたり、鉦を打つ力に強弱をつけて音階音程をつくりだします。
このような特徴から、小倉祇園が「太鼓祇園」と称されるのに対し、中津祇園は『鉦祇園』ともよばれています。
かつて中津と大阪は、瀬戸内海を通じて経済的な結び付きが強かったことから、祇園車と同様、大坂のだんじり囃子が中津に伝わってきたと言われています。
勇猛な「練り込み」
正徳2年(1712)に、中津藩主の病気治癒を祈願して、祇園車を城内の椎木門から西御門まで走らせたのが「練り込み」の起源とされており、下祇園ではスピードが魅力の「棒練り」、上祇園ではダイナミックな舵切りが魅力の「廻し練り」が行われます。
棒練り「棒練り」は境内の直線コースをひたすら往復するだけではありますが、その見所はスピードだけでなく、折り返す時の綱の引き戻し方や、祇園車が止まらないように台輪の周囲に引き手が集まって押す等、様々な工夫を織り交ぜている点にも注目です。
一方、「廻し練り」の見所は、走りながら祇園車の方向を変える舵取です。
舵取りの際に一番重要なことは、前を引っ張る綱と後ろの舵取りの呼吸を上手く合わせることにあります。
廻周の仕方については、境内を四角く廻る町内と弧を描くように廻る町内とがありますが、その一糸乱れぬ姿は見る人を魅了します。